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ヒロシマ新聞は、中国新聞労働組合の被爆50年記念事業として、「もし原爆投下の日の新聞があったら」という仮定にたち、現在の視点で作成、発行した新聞である。発行直後から、全国の様々なメディアで紹介され、多くの反響をいただいた。そのおかげもあって、第一回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞、テレビ朝日「やじうまワイド」特別賞、第一回新聞労連大賞優秀賞をそれぞれ受賞、翌年には読者からの反響をまとめた「ヒロシマへの手紙〜幻の原爆新聞反響集」を発行した。
反響集の声の中には「ヒロシマ新聞をいろいろな国の言葉に翻訳して世界中に配ってはどうでしょうか?(15歳・学生)」「労組がこのような元気な取り組みをしているのに元気づけられました。(37歳・男性)」「ヒロシマ新聞による核廃絶を叫び続けて下さい。そしてその惨状を後世に伝えて下さい(73歳・男性)」。いずれも、核廃絶、平和な世界を望む声、そしてヒロシマ新聞を作った私たち労組に対する激励、感謝の声だった。本当に熱い思いが伝わってきた。
あれから10年が過ぎ、ヒロシマ新聞が放っていた熱いエネルギーが消えようとしていた。私たちの願いもむなしく、今も世界中で、地域紛争やテロが巻き起こっている。核兵器使用の危機も身近に存在しており、未だに世界平和への糸口が見出せてはいない。当時の声に何一つ応えていない。ヒロシマ新聞以後、私たちは何をしてきたのか、自戒の念が日増しに大きくなっていた。私たちは“ヒロシマ新聞の後遺症”に悩んでいた。それを払拭するためには何をすべきか、労組内で議論が始まった。
60年前に、インターネットがあって、原爆投下の惨状が世界に発信できていたら…。
きっかけは、やはり「ヒロシマ新聞」だった。新聞で発行した当時と比べて、インターネット環境が格段に進歩した。そこで私たちはヒロシマ新聞を世界に発信しようと考えた。
その当時、もしインターネットがあったら、爆弾投下直後のヒロシマの様子が生々しく世界中に伝えられ、そしてその惨状の記録は、膨大な資料とともに語り継がれていったはずである。核爆弾投下の衝撃、そしてその被害の大きさが、世界中の人々の心を直撃するならば、平和に対して無関心でいられるだろうか。
1945年当時、もちろんインターネットは存在しないが、私たちは10年前のヒロシマ新聞をベースになるべく忠実にウェブ上で再現した。そして当時いただいた貴重な意見を参考にしながら、あらたな資料、解説を加え再構成した。表現しきれなかった部分はあると思う。しかし世界中の多くの人に、当時の惨状を疑似体験していただき、核戦争の悲惨さ、平和の大切さをあらためて考えるきっかけにしていただければ、と心より願う。
「ヒロシマ新聞」は、世界に向け、再びエネルギーを放ち始めた。
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2005年8月
中国新聞労働組合
執行委員長 松本剛志
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