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- 中国新聞社も114人被害
2日休刊、9日付で「新型爆弾」報じる
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1945年8月7日付の中国新聞は存在しない。広島本社が原爆被災で発行不能となったためだ。中国新聞労働組合は被爆50年の95年8月、「発行できなかった新聞を現在の視点で取材、編集した」ヒロシマ新聞を制作し、反響を呼んだ。
●中国新聞社の被災
被爆当時、中国新聞社は爆心から約1キロ、上流川町(現中区胡町)にあった。鉄筋コンクリートの社屋も壊滅的な被害を受けた。社屋の内外で、当時の従業員の三分の一近い114人が犠牲になったとされる。他の新聞、通信社で働いていた十数人も犠牲になった。
生き残った社員がまず取り組んだのが、戦時の契約に基づく周辺各紙への代行制作の依頼だった。市内の壊滅を受け、郊外の府中町にある社長宅が事実上の「本社」となり、九州の朝日・毎日の西部本社、西日本新聞社、松江市の島根新聞社、さらに朝日・毎日の大阪本社に使者を派遣。被爆から3日目の9日付から、「中国新聞」の題号が印刷された新聞が、広島、山口県内に届けられた。
●戦時報道
保存されている9日付の紙面を見ると、B29など260機による北九州方面での空襲をトップで報道。広島市の被害については囲み記事で、米国の「新型爆弾」による攻撃と断定し、「敵の正体はまぎれもなく悪魔であり鬼畜であったのだ」と、その残虐性を非難している。
「新型爆弾攻撃に強靱な掩体(防壁)と厚着」の見出しで、防空壕の補強や、厚着をして皮膚の露出を防ぐことなど四項目の対策を挙げている。しかし、被害状況についての詳細な記述はなく、「見よ、いまにわれらの復讐を」と戦意高揚のトーンに貫かれている。
自社印刷は、市郊外の温品村(現東区)に疎開させていた輪転機で再開された。「中国新聞百年史」(92年)は、保存されている自社印刷第1号として9月3日付紙面を紹介。その日の社説は「戦災につき中央へ望む」と題し、「この世の地獄のような」広島の惨状と再起への努力に対し、当局の関心と救援を求めている。 |
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