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  • 原爆投下までの経過
1939年 1月26日
デンマークの物理学者ニールス・ポーア博士がワシントンの学会で核分裂発見を発表
3月3日
 
米コロンビア大学でエンリコ・フェルミ氏(イタリアから亡命した科学者)、レオ・シラード氏、ウォルター・ジン氏(ハンガリーの物理学者)らが核分裂実証実験に成功
8月2日
 
シラード氏が起草した、米大統領にウラン研究推進を勧告する書簡に、アルバート・アインシュタイン博士が署名。ドイツがウランを使って新型兵器を開発する恐れも指摘
1940年 2月1日
 
ドイツから英国への亡命科学者オットー・フリッシュ氏とルドルフ・パイエルス氏が高濃縮ウラン爆弾の構想を覚書に。英政府が検討へ
6月27日
 
バネバー・ブッシュ氏を委員長に米国防調査委員会(NDRC)が発足
1941年 4月
 
日本陸軍航空技術研究所長の安田武雄中将が大河内正敏博士(理化学研究所長)に「原爆の研究」を依頼
10月11日
 
フランクリン・ルーズベルト米大統領、原爆開発の英米協刀をウインストン・チャーチル英首相に提案
11月28日
 
米政府が原子力研究をNDRCから科学研究開発局(OSRD)に移し、原爆課を創設 研究件数16、総費用20億ドル
1942年 1月
 
コロンビア、プリンストン両大学の核研究グループをシカゴ大学に移し、「冶金研究所」(アーサー・コンプトン所長)を開設。プルトニウム研究と実験用原子炉建設に着手
8月13日
 
原爆を製造する「マンハッタン計画」が始まる。本部はワシントンの陸軍省。9月、レスリー・グローフブス少将を総責任者に任命
11月
 
ニューメキシコ州ロスアラモスに原子兵器研究所の敷地を買う
12月2日
 
エンリコ・フェルミ博士が核分裂制御連鎖反応実験に成功。世界で初の「原子の火」
1943年 1月
 
テネシー州オークリッジでウラン分離工場(クリントン工場)の建設が始まる
3月15日
 
原子物理学者ロバート・オッペンハイマー博士、ロスアラモス原子兵器研究所長に着任
4月6日
 
ワシントン州ハンフォード工揚建設始まる。後に長崎に投下された原爆のプルトニウムを製造
5月
 
理化学研究所の大河内正敏博士からの「原爆の研究」依頼に対し、仁科芳雄博士の研究室が「可能」とする報告書。
1944年 2月20日
 
ドイツが原爆開発を断念
3月12日
 
仁科研究室でウラン235の分離筒が完成
8月26日
 
ニールス・ポ−ア博士がルーズベルト米大統領に会い、原子力の国際管理を提案
9月1日
 
ポール・チベッツ陸軍大佐が原爆投下のための飛行隊「第509混成部隊(B29爆撃機14機、将校・下士官合わせて1767人)」の隊長に任命される。12月に編成を終え、ユタ州の砂漠にあるウェンドバー基地で訓練開始
9月18日
 
ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が、原爆の対日使用で一致(ハイドパーク協定)
1945年 4月12日
 
ルーズベルト大統領死去。ハリー・トルーマン副大統領が大統領に就任
4月13日
 
東京空襲で理化学研究所がウラン分離筒とともに焼失。5月、陸軍が研究継続を断念
4月25日
 
ヘンリー・スチムソン米陸軍長官とグローブス少将が「4カ月以内に原爆完成」とトルーマン大統領に報告
5月8日
 
ドイツが無条件降伏
5月18日
 
第509混成部隊がテニアン島へ移動開始
5月28日
 
シラード氏らがバーンズ戦争動員局長官に会い、原爆の日本への使用に反対を表明
6月12日
 
米の「原子力の社会的・政治的意義に関する委員会」委員長のジェームズ・フランク博士ら7人の科学者が、スチムソン長官あてに、原爆投下に反対する報告書(フランク報告)を提出
7月16日
 
ニューメキシコ州アラモゴードで初のプルトニウムを使った原子爆弾実験が成功
7月17日
 
シカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトン所長が、シラード氏ら研究所の学者68人が署名した、日本への原爆使用に反対する請願書をジョージ・ハリソン陸軍長官特別顧問に提出
7月22日
 
原爆投下の目標選定委員会が、広島、小倉、新潟、長崎を目標都市に選ぶ。京都はスチムソン長官の反対で外される
7月24日
 
ポツダムで、トルーマン大統領がソ連のスターリン首相に、新型爆弾の開発成功と日本への使用を伝える
7月25日
 
参謀本部の卜―マス・ハンディー作戦部長がカール・スパーツ戦略空軍司令官に、8月1日以降、原爆を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに目視投下するよう命令
8月1日
 
広島に投下するウラン型原子爆弾「リトルボーイ」の組み立て完了。新潟は都市規模が小さく遠いため、投下目標から除く。この日説明があった命令では、攻撃部隊は7機編成。B29爆撃機3機が先行して広島、小倉、長崎の上空で待機、気象状況を原爆投下機エノラ・ゲイのチベッツ機長とグアム、テニアンの両司令部に報告。2機はエノラ・ゲイを援護、うち1機は爆発測定器、もう1機はカメラを搭載。残る1機はエノラ・ゲイの代替機として硫黄島で待機
8月6日
 
日本時間8月6日午前零時37分、気象観測機3機がテニアン基地を離陸。午前1持45分、原爆を積んだエノラ・ゲイ発進。午前8時15分、広島に原爆投下。作戦を終え基地に帰ったのは午後1時58分だった
     
 
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