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  • 打つ手なく医師無力感
    陸軍病院江波分院

    (六日夜)
 市周辺部の病院は被害が少なかったため、避難してきた負傷者の治療に当たった。爆心から約三キロ南西の広島陸軍病院江波分院は、建物の倒壊を免れ、医師、看護婦らも無事で、負傷者が殺到。夕方までに千人を超えた。

 同病院は、もともと陸軍の伝染病患者用の施設。八百人以上の収容力がある大きな病院だが、傷病兵らは次々に疎開し、約百五十人に減っていた。

 一般市民には縁のない病院だったが、被爆から三十分もすると、半裸体で上半身が真っ黒に汚れ、火傷した手の先から皮膚が二十センチもぶらさがった人たちが、正門から助けを求めて入って来た。

 八人いた医師のうち藤田雄二軍医少尉(30)は、周辺の建物の倒壊が少なかったため、爆撃の被害は小さいと思っていた。「地獄の中で打ちひしがれたような人が次々に来る。何が起こったのか。ぎょっとした」と言う。

 負傷者は敷地内にむしろを敷いて寝かせた。藤田少尉は、傷口の化のうを防ぐため消毒用のマーキュロ、チンク油(亜鉛化軟こう)を塗るよう看護婦に指示して歩いた。午後三時まで食事をする暇もなかった。「頭の中はからっぽ。痛みを止めようと思うのだが、どうにもならなかった」と無力感に打ちひしがれていた。

 看護婦の田中セツ子さん(26)は、やけどの患者にマーキュロを塗り、垂れ下がった皮膚をはさみで切除した。骨折患者には木や傘を副木に代用して応急措置を施した。

 そのうち院内は、死体につまずくほど歩きにくくなった。目が不自由になった患者が多く、一人がつまずくと何人もが転ぶ。倒れた人の足を引っ張って並べ、道を開けるが、一番下の人は死んでいたりした。

 冷めたおかゆを配ると、食器すらもはや持ち切れず中身を顔にこぼし、窒息する人も出た。母親の遺体のそばで、指を吸い続ける一歳くらいの幼児。夜遅くまで「水、水…」とうめき声が響いた。灯火管制が続いていたため、黒いマントを着てローソクで口元を照らし、水を含ませて歩いた。

 入院していた傷病兵も治療の手伝いに加わった。江波の住民たちも自宅を開放し、看病に努めた。
 
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