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- 「オンマー」叫ぶ子
朝鮮半島の人たちも被害
(六日夜)
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強制連行や留学目的などで日本に集められた外国人にも多くの被害者が出た。
山手川の土手には、近くに住む朝鮮半島の人たちが、続々と集まった。ごう音とともに多くの長屋が一瞬のうちにつぶれ、屋外にいたものは直接熱線を浴び全身火傷を負った。がれきの下から聞こえる叫びと逃げ惑う人々の足音で騒然となった、という。なかには着物がほとんど吹き飛び、露出した皮膚が赤紫色にただれた人も土手筋に避難してきた。
我が子の名を叫ぶ母親、「オンマー(お母ちゃ−ん)」と泣きながら走る子供たちの声が錯綜した。
家族らと共に避難してきた南三篠町の朴順伊さん(18)は、がれきの中から煙が立ち込める廃墟を見やり「何もかものうなっとる」と赤ん坊をギュッと抱き締めぼう然とつぶやいた。
観音橋のたもとの広場には、約三十人が力なく座リ込んでいた。熱風とともに煙が押し寄せる度に川に逃げ込み、みな疲れきっている。大手町から逃れてきたという郭福順さん(17)は「一体、何がどうなっているのかわからん」と顔からは表情が消えていた。 |
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慰霊碑の由来
(慰霊碑横に併設されている碑文より)
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韓国人原爆犠牲者慰霊碑 |
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第二次世界大戦の終わり頃 広島には約十万人の韓国人が 軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。
1945年8月6日原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。
広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる数字ではない。
爆死した これら犠牲者は誰からも供養を受けることなく、その魂は永くさまよい続けていたが、1970年4月10日 在日本大韓民国居留民団広島県本部によって悲惨を強いられた同胞の霊を安らげ 原爆の惨事を二度と くり返さないことを希求しつつ平和の地、広島の一隅に この碑が建立された。
望郷の念にかられつつ異国の地で爆死した霊を慰めることはもとより 今もなお理解されていない韓国人被爆者の現状に対しての関心を喚起し一日も早い良識ある支援が実現されることを念じる。
韓国人犠牲者慰霊祭は毎年8月5日この場所で挙行されている。
在日韓国青年商工人連合会及び有志一同 |
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